今日はやたらと千空の視線を感じる気がする。
聞いても「気のせいだろ」といわれるかもしれないが、言いたくても言いづらいことがある可能性だって捨てきれない。もしかして今日ずっと私の服に穴が開いてたとか?いや、そういうことはソッコー言ってくる人だ。
もう悩んでいても仕方ないので、一段落したところで人のいないところに彼を呼び出した。
「で、早速だけど……千空今日どうかした?」
呼び出した時点で何を言われるか分かっていたのだろう。さっきからしかめっ面の科学少年を半ば無理矢理、隣に座らせた。
「言いたくないならそのままでも良いけど。まぁせっかくだからちょっとゆっくりしようじゃないか!」
日中は暑くてたまらないが、夕方にもなると良い風が吹いてくる。そういうものを肌で感じながら今日の自分を労る時間も大事だ。
こうして千空と何をするでもなく二人きりで過ごすなんて、昔は想像もしなかった。なにせ彼が私を呼び出すのは決まって彼の好奇心に付き合わされる時だったから。
隣で無言を貫いている千空を横目で盗み見なくたって分かる。今日ずっとそうだったように、彼の視線は今も私を捉えている。
「名前」
風の音に紛れそうで、しかし案外拾えてしまうような声だった。
「んー?」
合理性を愛する千空は、どうしてもしなきゃいけない話なら言いにくくてもぶつけてくる。そう、思っている。
言い淀んでるってことは逆に彼のなかで言葉にする必要性を感じていないからなのかも。理屈だけじゃどうにもならないもので彼が葛藤してるなら、私にできるのは待つことだけだ。たとえどれだけ時間がかかっても。
「なにガッツリ見てやがんだテメーは」
あー、とかいや、だとか言葉を選ぶにも四苦八苦してる千空の顔を無遠慮にも覗き込んでしまった。待つと思ったそばから、私にはまるで堪え性がない。
千空の眉間に深く刻まれた皺と一瞬固まった空気がふと緩んだ気がした。
「ゴメン。体が勝手に……あはは。ね、どうしても言えないかな」
「あぁ、やめといた方が、良いかもな」
「……理由を聞いても?」
「結局こういう流れかよ」
不機嫌そうに口を尖らせて視線をぶつけてくる千空は、構ってもらえなくていじけてる子どもみたいだ。
なんだかな、そういう顔をされると形振り構わず撫でくり回したくなってしまうんだけど、千空は分かってやってるんだろうか。
「…………言いたくはねえな」
「うん」
「気持ち悪ィから」
「気持ち悪い!?」
気持ち悪いって、何が。私、そんなだらしない顔してた?何がどう気持ち悪いのか、正直思い当たる節がありすぎて逆に分からない。どうしよう。
「テメーのことじゃねえよバカ」
「えっ……そ、そう」
じゃあ何だろう。千空自身のこと?それはあまりよろしくない。柄でもないなんて思って遠慮してたんだろうか。
「千空あのね」
「おう」
「千空が私にすることで負い目を感じるようなことは、絶対にないから」
「ほーーんそりゃ随分な自信じゃねえか」
茶化されたけど、これは今の私が千空に言える精一杯だ。心って、科学の現象みたいな法則が一概に当てはまるわけじゃない。同じ人間でも昨日と今日で言うことが違うのは日常茶飯事で、一生正解に辿り着けないままお別れなんてこともざらにある。
千空は多分そういうのを厄介だと感じるのかもしれない。なんて、それも私の勝手な憶測でしかないけれど。
だけど彼のなかで私が少しでも変わらない存在でいられるなら、そういう生き方も個人的には悪くないと思えるのだ。
「まーでもあれだ、どうでも良くなってきたわ。テメーのツラ見てたら」
千空が岩肌に凭れていた背を起こす。そのまま持ち上げられた腕が私の顔に伸びてくるのを黙って眺めていた。
「触っても良いか」
千空。もしかして今日ずっと言いたかったことって、それ?
「ん、仕方ないな……ほら、好きにしたまえ」
「言ったな」
真っ直ぐな感情を真っ直ぐに受け止められるほど純粋でもいられなくて。
彼が僅かに身を乗り出して、そのまま両の頬を包まれる。あたたかい。そう思っていたら千空はの顔が意地悪く歪んだ。
「いっ!?いひゃい!」
「クク、よ〜〜く伸びんじゃねえか」
摘ままれて容赦なく引っ張られた頬が悲鳴をあげている。よく伸びるんじゃなく伸ばされているのだ。この悪戯小僧め。そう思っても喋ることすらかなわない。
ひとしきり人の顔で遊ぶと千空の手はすんなりと離れていった。
「もう良いの?」
この一瞬を我慢するために一日我慢していただなんて、それこそ効率が悪いような気がしないでもない。
「あぁ。こっちはな」
そう言って千空は私の肩に額を押し付けた。そうそう、こういうのだ。もぞもぞと落ち着く位置を探してるのか、くすぐったい。
「イテっ」
「あ?」
「いや髪が……ううんなんでもない」
このくらいの充電ならいくらでも歓迎だし、これは私が千空にできる数少ないことでもある。
千空が明日からまた楽しそうな顔で生きてくれるなら、私はもうそれだけで良いのだった。
2021.4.4 波の寄る辺
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